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9月2日「下意識の「大和」」

 私は広島県呉市の岩方通りというところで生まれた。現在は呉市のど真ん中あたりである。 父は広島県の東北にある、「比婆郡東城町」というところの生まれである。その辺の庄屋さんだった家の長男として生を享け、長じて家を出た。長男が農業を嫌になったのだろうか。父はその辺は多くを語らなかった。家を出た時、父を慕っていた妹が一緒にやって来た。私にとって叔母に当たるその人は、美しい人だったらしい。彼女は呉に来てから、高等女学校に通い始めた。その担任が、三宅キミヱという女性だった。 三宅キミヱの生まれは福岡県の田川。「青春の門」の舞台であるこの炭鉱町で、陶磁器の卸を営む家に生まれた。小さいころ板付空港に飛行機がやってくるというので、近所のガキどもを引き連れて自転車で出かけたところ、霧が深くて着陸できなかったため、ぶーぶー文句を言う連中をなだめながら田川まで帰った。キミヱは活発で利発な娘であった。

 キミヱは、明治の生まれの女にしては珍しく、大学へ進学した。勉強が好きだったのだろう。現在の共立女子大(当時は共立女子専門学校)である。鳩山薫子さんに教わったという。卒業して教員になり、福岡の直方を経て呉に赴任した。そこの女学校で教えたクラスに的川ヒサノという教え子がいた。先生だから家庭訪問にやって来る。来た家に保護者としてヒサノさんの兄がいた。

 先生と保護者の初対面の日、ヒサノさんは「その出会いは、家庭訪問ではなく、まるでお見合いの席のようだった」と後に語っている。二人とも下を向いて、モジモジしながら話をしていたそうである。こうしてキミヱは、私の母になった。いや正確に言えば、その前に的川令造の妻になった。時に大正14年(1925年)4月29日。その後私の早世した私の姉(昌子)、二人の兄(舜司、正史)の母になった後、私の母になった。

 姉が亡くなったのは昭和7年(1932年)、ジフテリアだったらしい。今なら注射一本で治る病気も、当時の日本ではとてもかなわなかった。枕元で泣きぬれながら看病をつづける母のそばで、大好きな祖母チカに抱かれて、姉は息を引き取ったそうである。享年6歳。翌年、孫の死に耐えきれなかった祖母は、翌年55歳で亡くなった。その時に詠んだ母の歌が残っている。

  うつし世に 人をにくまぬ母なりし  見おさめとなる み顔すがしも

 私が生まれる10年前のことである。この姉が生きていたら、私の一生も随分と様相が変わったかもしれない。第一に、母はもっともっと幸せだっただろうと思う。昭和19年(1944年)1月20日、父はフィリピンのダバオに向け乗艦。母に背負われたもうじき2歳の私が、「お父ちゃんバンザイ」と旗を振って見送った(らしい)。

 母が先生をしていた関係上、私は同居していた従姉(と言っても相当年上の人だが)藤枝さんが、母の学校まで昼の時間におっぱいを飲ませに連れて行ってくれた。呉の東の丘に建つ高等女学校である。そこからは呉の港が一望できた。

 港の一角に有名な「秘密ドック」があった。「秘密」のドックが「有名」というのもおかしな話だが、なぜ有名かというと、当時そこで戦艦大和を建造していたからである。その学校の南側からは秘密ドックの一部が見える。だからそちらを向いた窓は板張りがしてあって、覗いてはいけないことになっていた。ヨチヨチ歩きの私はいつもどういうわけかその板張りの窓の向こう側に回り込んで、海を眺めていたという。母は私を連れ戻しに行って、その度に秘密ドックの方を眺めた(らしい)。

 「お前は戦艦大和を見ながら育ったんだよ」━━私が小学校の時に嫌になるほど聞かされた母のセリフである。(つづく)

(YM)

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