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YMコラム
12月28日「今年もお世話になりました」

 3.11という数字が重く人々の記憶にのしかかる年でした。そしてこれから長くこの国の試練は続いていきます。今年私たちが出会ったこの大事件をどのように評価するかが、今後の生き方に大きく影響して来るでしょう。ポイントは二つあります。

1 自然と人間の関係

 第一は、自然あるいは地球と人間との関係についてです。「地震は恐ろしい、津波は怖い」──こういった自然と人間の力やエネルギーの差についての今更ながらの驚きにとどまる立場からは、何も生まれないだろうというのが正直な感想です。それはもともと当たり前なのです。まず、地球には悪意がなかったのだという前提が大事ですね。地球とて自分の「健康」を維持するためにやらなければならない「自然」としての「健康法」があります。それが3月11日に行われたのです。問題は、その「健康体操」を予測することができなかった人間の側の問題です。それは人間が賢くなる以外にないのだと思います。

1‐1 科学が対処の仕方を一定程度は教えてくれるようになった

 「賢い」という概念、あるいは「賢くなる」という成長概念は、人間が自然と一緒にこの星で生きていく過程で築いてきたものです。そしてその賢さは、科学的思考が芽生えて以降は、それ以前よりも的確なものになっていき、及ばずながら「原理的にはこうすればよかった」というイメージを描くことぐらいはできるようになっているのではないでしょうか。つまり科学という営みは、自然を謙虚に理解し、そこに展開している法則をつかんで能動的に対処すれば、「打つ手は必ずある」という信念を多くの人に賦与していると思います。原発にしても「想定外だったから対処できなかった」なんて言っている人は、言外に「想定していれば対処できた」と言っているのでしょうからね。事故調査委員会なるものの検討と答申というのは、そういう立場に立って行われるものなのでしょう。

1‐2 まだ自然には人間の及ばない領域もある

 ただし念のため確認すれば、人間が現在の科学・技術でどんなに頑張っても対処しきれない自然も存在しています。極端に言えば、太陽が終焉を迎えて燃え尽きる時、地球というお伴の星が遭遇する運命については、この事件が今すぐに来たらアウトですね。私たちのものを作る力をどんなに総合しても、それはエネルギーのレベルが全く違います。科学は、そういう人知の及ばないものを知ることができているのだと思います。この私たちが現実的に自分を守ることが(一応ここでは「現在では」と言っておきましょう)時間的空間的に「はるかな想定内」の現象と、実践的に対処できる可能性のある「想定内」とは、少し性質が異なっているのですね。いたずらに自然と人間のエネルギーの比較をして嘆くのではなく、私たちに相応の「想像力」を働かせることが大切ですね。どの辺にその限界があるのか、その境目をひろげていくことこそが科学の、そして技術の役割なのでしょう。「理科嫌いをなくそう」ということの本質は、まさしくそこにあるのだと思いますね。

1−3 この問題と「理科嫌い」の関連について

 しかしながら、こういう“must”の関係で発想した「理科嫌いの克服」という呼びかけは、結局ははかないものに終わるでしょう。もともと私たちの心のmustは、後天的に育ってきているような気がするからです。もっと根源的な心は、やはり「好き」とか「嫌い」とかいうものですね。私自身の心をたぐっていくと、たとえば「人々が幸せに生きる世の中ができるように貢献したい」という気持ちは、かなり幼いころからの体験から後天的に芽生えてきているのだという感じですね。こうした心の傾向が、ある年齢で育まれ、そしてさまざまな「社会のために」生きた人々の崇高な人生と経験を見聞きしながら、その「心」が共鳴し、強められていったのだと思っています。つまりそのような心の傾向が自分の「好み」になることが最初なのだということです。だから、自然や生き物を心の底から「好き」になる情緒なしに始まった「科学」は、進んでいくうちに限界に突き当たるでしょう。自然と遊び、生き物と遊び、そのような「センス」を幼いころに育む大運動を起こすことなしに、国全体に「理科嫌いをなくす」目標なんて達成できるわけがない。私はそう思います。学校の理科のテストの点数を上げることに目標を絞ると、国としても人としてもろくなことにはならないでしょう。

 ここまで述べた第一のポイントをまとめれば、自然の一部として生きている人間が、その親である自然をよく理解し対処しながら生き抜いていくために欠かせない大切な活動の一つが科学であり、その営みが私たちの行動との関係で持っている役割は、現在の私たちの知的レベルで対処できる限界を見極めることにある。そしてその営みを推進する基本的な原動力は、赤ちゃんの頃に誰でもが持っている、周りの世界へのあのキラキラした好奇心を「好き」という心に成長させ、それをヒトの社会というさらに大きな場での自覚にまで高めること。子どもの心の襞まで分かっている、あるいは努力すれば分かるはずの、親や家族、そしてその個々の家庭と社会をつなぐ入口としての地域が、協働して子どもを大切に育てなければならない意味は、そこにあります。

2 科学を社会に活かす道は複雑

 いたずらに人間と自然の格の違いを嘆いてもはじまらないという第一のポイントの次に来る第二のポイントは、科学の役割が分かり、技術的にどうすればたとえば地震や津波が乗り越えられたのかという「想定」の問題が解決されたとしても、それだけでは何も解決されないということにあります。それは実現のプロセスに社会の仕組みが関わって来るからです。第一のポイントと第二のポイントは、全く別のことであり、ごちゃまぜには論じられません。“福島原発の「想定外」を「想定内」にしていれば”という指摘は、もちろん間違ってはいないでしょうが、「想定外」に設定する過程に、予算の問題や企業としての利潤の問題や政治献金の問題や利益誘導の問題や、その他もろもろの「社会的」で人間臭い問題がからまってきているというところに第二のポイントの核心があります。この方面のことになると、私は全くの素人で、まさしく「お前の出る幕ではなくなる」のですね。そして多くの人にとって、この問題は永遠にそうなのです。そういった性質のことは、おそらくギリシャ・ローマの時代から引きずっている、人間が克服できていない、あるいは(適切ではないかもしれませんが)進化しきれていない側面があるのだと思います。汚職なんて権力の発生以来何千年も続いているわけですからね。しかし、この問題についても、「人間の性(さが)」という冷めた諦観で片づけてはいけないのだと思います。人間の歴史は、この方面でもそれなりの血のにじむような歴史を作って来て、やはりそれなりの成果を収めてきているのですから。

 一つだけ例をあげましょう。非常に単純な構造として目につくのは、この国の中が「中央と地方」という分け方をされ、中央は大都市化と経済成長、地方は過疎化・高齢化と疲弊という対照的な扱いを受けていることです。それがそもそもの最初から意図的だったのかどうかはともかく、いったんこうなると、「地方の疲弊を救う」という名目で金が投入され、エネルギー問題を前面に立てて、「中央を支える地方」という図式ができていきました。利益誘導という手法はやがて政策誘導に変貌していきます。こうした過程は、そんなに単純ではないでしょうが、できあがってきたものは、利益で結ばれた都会、自然や地縁で結ばれた地方という対照的な「風景」を全国的に作り出しました。こうした一連の動きは、とても私の力では分析できませんが、考え方がいっぱいあって、素人はどんな議論をしても敵わない想いがあります。一個人としてこうした論争に参加できるのは、選挙のときだけということが、(今の段階では)切ないですね。

もう一つだけ例をあげれば、今年は、世界的にもアラブ世界を中心に世界史的な転換点になったという激動の始まりもあります。これらのことは、来年初頭の「おめでとうございます」の時に、少しまとめてみなさんとの議論を開始することにしましょう。とりあえず本当に今年もお世話になりました。どうぞよいお年をお迎えください。

 ああ、それから、KU-MAの会員継続の時期が来ている方々は、ぜひとも早めに更新の手続きをお願いします。この星全体を「宇宙の学校」という大規模な舞台にしたいという志をもって進んでいこうではありませんか。

(YM)

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