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3月28日「3月26日──坂本龍馬脱藩の日」

 この原稿を書いている日の前日は、3月26日。あの坂本龍馬が土佐藩を脱藩した日である。もうずっと前、漁業交渉で高知を訪れた際、高知県漁連の、山田さんという室戸の漁業組合長さんが、「先生、今日は何の日か知っていますか?」と言って、案内してくれたのが、龍馬が脱藩した時のゆかりの道だった。その日は3月26日だったのである。

 山田さんというのは、土佐日記に出てくるという「山田邸」(図1〜3)の現在の主である。彼が幼いころ、昭和天皇が室戸に来られた時に、その山田邸に泊まられた。その時の模様を山田さんが面白おかしく話してくれた。


(図1)室戸岬の山田邸


(図2)室戸の山田邸


(図3)室戸の山田邸

 当時10歳だった山田さんは、その日訪れる客のことを、いつになく緊張した面持ちで待っている父親のことが、妙に気になった。しかもその客が来たら、すぐに山田邸で一番上等な部屋のある2階に通して、大事にしている。幼い頃から、自分の親父がこの世で一番の「親分」だと思い続けていた山田さんにとって、これは大きな事件だった。それはそうだろう、室戸一番の名家であることは確かなのだから。

 今日のこの客はどうやら自分の親父よりも格上の親分らしい。どうしてもその「大親分」に会いたくなった。ところが2階に上がろうとしたら、階段を上り切ったところに、男が一人構えていて、山田さんを阻止した。「坊ちゃん、これ以上入ってはいけません。」山田さんは逆上し、「うるさい! ここはわしの家じゃ!」とばかり、無理やり押しのけて部屋に飛び込んだら、それほどの「鬼のような大親分」ではない人がポツンと座っていたという。

 それから1時間、山田さんはその「細い大親分」といろんなことをして遊んだ。ポケットに入っていた刺青遊びを持ち出して、その「大親分」に教えてあげようとしたら、「大親分」が先ほどの男に「水を持ってきなさい」と言いつけている。咄嗟に山田さん、「ダメダメ。これは唾でつけないと駄目なんじゃ」と、自分の唾液でベトベトにした紙刺青を、「大親分」の腕にしっかりと貼り付けてやった……。

 そのうち外に買い物に行っていた親父が帰宅して、山田さんを探し、2階にいると聞いて青くなった。急いで2階に上がって息子を引きずりおろした。「大親分」は翌日山田邸を発った。

 一週間ぐらい過ぎたころ、親父が「東京へ行くからついてこい」と山田さんに言った。訳が分からない山田さんは黙って従った。親父は羽織袴という正装。行った先は(その時の山田さんは知らなかったが)皇居だった。あの「大親分」に会った。「室戸ではお世話になりました。この坊やが遊んでくれた1時間は、とても楽しかった」と、昭和天皇の言葉。切腹覚悟で出かけたお父さんに対して、得意満面の山田少年だったという。しかしその時はよく事情が分からず、「さすが大親分。大きな家に住んでいるなあ」と思ったらしい。

   さて、思いもよらず回り道をした。龍馬の脱藩の話。

 龍馬は、1862年(文久2年)3月24日に沢村惣之丞とともに高知城下を旅立ち、25日に高知から一日かけて90 kmを走りきり、檮原(ゆすはら)の那須邸を頼り宿泊した。私が行った時は、須崎というからバスで檮原に向かった。とても龍馬たちの健脚には及ばないから。

 バスで山田さんに促されるまま途中下車、津野という町に立ち寄った。吉村寅太郎の生家があった(図4〜6)。この人が土佐藩脱藩1号である。後に「天誅組」を組織した。私たちは、その生家に向かって手を合わせた後に檮原に向かった。檮原の町が近づいた時に見えてきた棚田には驚いた。神在居(かんざいこ)の千枚田である(図7)。平地の少ないこの地ならではの見事な高低差。


(図4)吉村寅太郎誕生の地(1)


(図5)吉村寅太郎誕生の地(2)


(図6)吉村寅太郎の像


(図7)神在居の千枚田

 龍馬はここで那須俊平・信吾父子の家に一泊。一晩中酒を飲んだと伝えられている。何を語り合ったのだろうか。実は信吾は、武智半平太の組織した「土佐勤王党」に加わっていたから、すでに龍馬とは知り合いだったと思われる。信吾は俊平の娘婿だった。俊平は土佐藩随一の槍の使い手として知られ、そこで修行に励んだ信吾と共に、道場を経営していたらしい。時に俊平はすでに還暦間近である。脱藩する若者たちの心情に理解を示すこの老人の血も熱かった。

 龍馬と沢村惣之丞は、翌26日、俊平と信吾の案内で山を登った。その山に山田さんと私も登った。途中立ち寄った高台に、墓が6つ並んでいる。龍馬たちと同じように脱藩した6人の志士たちの分霊だ(図8)。さらに檮原川にかかる神幸橋(みゆき)という立派な橋を渡って、しばらく行くと、有名な「維新の門」。6人の志士とに、龍馬、惣之丞を加えた8人の群像が立ち並んでいる(図9)。


(図8)六志士の墓(左から掛橋和泉、中平龍之介、前田繁馬、那須信吾、那須俊平、吉村寅太郎)


(図9)維新の門(左から前田繁馬、那須信吾、吉村寅太郎、中平龍之助、掛橋和泉、澤村惣之丞、坂本龍馬、那須俊平)

 群像がめざしている方向へかなり歩いた。そして視界が開けたと思うと、そこが韮ヶ峠。土佐と伊予との境である(図10)。3月26日、ここを龍馬たちは脱けた。この峠の頂点で信吾は後に残り、俊平だけが龍馬と惣之丞を案内して坂を下り、伊予大洲領の宿間村まで行ったと、司馬遼太郎は語っている。


(図10)韮ヶ峠

 儚いのは、25日に那須邸でおそらくは杯を交わしながら語り合った4人の運命である。その翌月、1862年(文久2年)4月8日、那須信吾は公武合体論者の吉田東洋を暗殺。脱藩して天誅組に入って大和で挙兵、奈良吉野で戦死した。

 養父である那須俊平も1864年(元治元年)に脱藩し伊予の八幡浜経由で10月4日に三田尻に到着。名を梼山源八郎と変えて、土佐脱藩者である松山深蔵が隊長を務め、中岡慎太郎や池内蔵太らが参加する浪士部隊の忠勇隊に入隊する。これより先、長州藩は京の政変により御所堺町御門の警衛の任を解かれた罪を許され、薩摩藩を京より追い出す為に、京へ進軍。俊平は忠勇隊の第2伍長として従軍する。京周辺に駐屯したのち長州軍として京市中へ流れ込み、薩摩藩や会津藩らと激しい戦闘となった。俊平は鷹司邸後門で戦闘中に誤って溝に落ちてしまい、越前藩兵堤吾市郎(五一郎)に討たれ戦死。享年58歳。

 1835年(天保6年)生まれの龍馬は、ご存知の通り、1867年(慶応3年)11月15日、京都近江屋で凶刃に倒れた。

 そして澤村惣之丞は、長崎で龍馬の片腕として活躍したが、友好関係にあった薩摩藩士を誤殺し、「この大事のときに薩摩と土佐の間に溝を生じてはならない」と、従容として自決。龍馬が暗殺された年の1月25日のことだった。

 あっという間に4つの命は、熱い熱い時代を遺して、この世を旅立っている。

   あの日、室戸の山田邸に夜遅く着き、山田さんと差し向かいで夜っぴいて飲んだ日本酒は、楽しく、苦く、そしてかなりの量だった。

(YM)

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